哲教

哲学というものを人に説明しようとすれば、いくつもの定義と概念が合わさった、ザワザワしたものに感じるものを説明しなくてはらないと感じるだろう。説明するからには、そのいくつかの混じり合ったものを分解しなくてはならない。そのざわざわという不安感の心情を言葉にするなら、哲学の歴史、哲学の知識人の競われる言葉と行き着く先であり、そのまま定義しないで使えば、人の心情の答えを綴るだけのものともなり、宇宙のあり方を示すようなものも哲学となるだろう。


私は、別に形式だった難しい展開の哲学ではなく、社会に隣り合わせにある問題を、行き着く先としての簡単なものを提示したいのである。しかしその簡単な物でも、人々が要求し、必要とされている哲学とは複雑であり、社会の問題を突き詰めたいなら、社会の問題を展開しなくてはらなないし、問題に正面から取り組んでも、哲学というものは捉えどころない、しかし概念だけは不思議にある、確信だけが進む得手不得手のものである。
定義しなくても使えてしまうが、しかし定義しなければ使えないというのは、結局は他人の心情を解き明かしながら、自分の見解を述べることに展開してしまうことであって、他人と自分の経験の共有にすがって話を始めるに過ぎないものがはじまりでありながら、他人と自分の経験というサンプル数の少なさから、その話を根本にして物事の修正を始めてしまう、物事の整理と概念を始めてしまうのであり、それでは哲学を定義すれば、それが解決するのか?哲学の定義とは、今説明したように、結論にならないパターンと、結論として求められるパターン、そのいくつかの分岐のはっきりした形を示すことによって、言葉において無駄な時間と話に付き合うことを省くという「信頼」を得ることが、定義による解決の意義だと言える。
つまりはフワフワした哲学の形を、損する形と得する形にはっきりわけよう、それが哲学の定義をする必要性である。
哲学を哲学とそのまま扱うのは、人の心情に沿うような話の始まりをしながら「結局は何が話したいのだ」という怒りを沸き立たせ、そのまま放置して、最初の問題とはかけ離れた、哲学を言及する人間の心情だけを、まっさらにさせる展開になっても、文句が言えないのである。つまり哲学と言う話自体には「保証」がないのである。
哲学には、役に立たない結果に引きずり込まれる場合があるのであり、それは哲学という成分が「人の気持の裏付け」と「社会構造の概念の構築」の言葉として人の心情にそう話において、哲学はよくよく答えが進むものであり、社会構造の題材の事象もよくよく照らし合わせるのに1長があり、しかし勝手に自分が考えた社会構造と、それを説き伏せるために人の心情に照らし合わせて同情と共感と結び付けさせて、社会の意義を提示することは、学問の絶対的な力の不文律に外れることであり、その外れることさえ哲学として答えを突き詰めていくことは、最初に人に話した「約束」と「約束」という人の営みから大きく外れた物になるのであり、人個人が哲学として披露したいなら勝手にすればいいが、哲学として役に立たせるということ、哲学で浮き彫りにさせたい問題があるというのであれば、哲学というフワフワしたものに定義をしなくては、やはり得体のしれない物と感じ取ったとおりの、人の心情に沿うだけのシロモノが答えありきとなる物事の世界の提示となるためである。その癖、自分に対しての同情ではなく、人の営みと生活に対しての同情を組み合わせようとするものとなり、哲学の意義が個人的な見解か、役に立てるための訴えるものか、役に立てるものと訴えながら実は役に立たない、この2度手間こそが哲学だということなのか、つまりは最初に人に社会的に役に立つことですよと約束したことを「裏切る」という展開も含まれるのであり、それは社会的に必要とされる概念として使おうとした場合、相応しくないのである。
哲学という定義をする必要性とは、哲学に「社会的保証」がない概念のためである。


そんな複雑なものをわざわざ取り扱う意味などあるのか?社会問題を語りたいなら、社会問題をそのまま語ればいいのではないのか?しかしながらやはり哲学は必要なのである。他人から他人に物事を伝える上で、哲学がない文明など、ただ自分の喋りたいことをしゃべって、その言葉を持ち帰らせるだけのものである。哲学というものが定義できるなら、その他の同等のこと、つまり人がしゃべるという文明も定義できる力がその社会にはあるのであり、哲学が全くないという国など文明の維持と、人の権利と意思の疎通と創造の勝利において、考えられない状態である。複雑そうに見える、人の心情に訴えることの説明のやり口を、定義できない状態は、それは哲学に対してもうやむやでわけのわからないものと「放棄」している社会状態と同じである。哲学を取り扱う意味とは「それ同等の人の意思の疎通と意義が定義できる力を備えることができる」ということにあり、さらに根本にあるのは、人が人に意志を伝える仕組みと、そこに起こっている事象というのは、哲学によって体をなすものと、これから説明していきたい。




哲学とはなんなのか?
哲学とは世の中の多くの言葉の住み分けが頼りないために、それらを補うための余りあるその他の言葉である。 哲学がないとは、場所取りが穴だらけの舞台での発言に従属することになる。 哲学があると急に議題の突き詰めは、つまらないものになるだろう。 しかし哲学がなければ、つまらないという前提さえもないだろう。哲学とは何か、知性と呼ばれるものをを司るものである。


根拠のない、事案の結びつきは知性が欠落している。
説明のない、その人の反射的見識による結論の興奮は知性が欠落している。
知性とは、言葉そのもので見れば、ある人間をけなすための言葉としてあり、その逆を称えるためのものであり、それは説明の手間を省いて、自分の中で成立している世界、集めた情報でこうなるに決まっているという事を説明する人間を、自分の考えた中でだけで心が動いた結果を報告する人間を、揶揄する言葉である。知性とは何か、力の流れの整合性の成立をさせていることである。
では哲学とはなんなのか。余りある言葉を補うとされるのが哲学とするなら、人は言葉に具体性を求めるのに、哲学は抽象的でありながら、なぜ哲学というものを必要とするのか。哲学というのは、まやかしであり、最終的に拒否する概念でもあるだろう。
それでもなぜ哲学を必要とするのか。
知性が力の流れの整合性であるすれば、その整合性とはなんなのかということを説明することが哲学である。説明する必要があるのか?と問われることに対して、説明することへの説得力の価値、そもそも他人を説得させる理由があるのかという答えを打ち出すのが、哲学である。しかしそれらは知性と呼んでもいいようなものである。
そして哲学は知性より凡庸のように感じる。知性より使えないものであり、表舞台で使えるようなものではないと。
哲学が知性を包括するのであれば、それは言葉の多くを補う行為が、知性という言葉の表現では、「期待できない」、人々は知性という表現より、哲学という表現を必要としているというときであり、知性では解決できない問題を任せられることが含まれる場合である。
果たして哲学とは何のなのか。

人間は童心をもち、さらにごまかしを必要とする人間である。
どうしても言及できない、暗に相手に示さなければならない言葉がある。
物事の是非ではなく、人のおももちにその呵責を問う時、それは心理を必要とするのであり、表現を必要とするのであり、相手に気づかせた上で答えを出さなくてはならない。
相手にきづかさなくして、答えをいっても、答えとして成立しているだけで、相手に通じていないのである。
さらに答えだけを通じさせることではなく、相手の説得を目的とする場合がある。
人が判子を押し、人が契約を結ぶからである。
哲学とは、具体的な要件・要項・事柄ではない。
相手の心理を必要とした上での答えという定義を、埋めるものとして具体化されることを欲された概念である。
人は心理を必要とする。しかし心理とは抽象的である。
しかし心理を必要とした上での具体性の答えなら、成果は具体的なものとなる。
つまり哲学というふわふわした、まやかしともとられる考えは、具体的な成果に結びつく、具体性の成立と関わるものである。
もちろん哲学という詐欺による契約の締結もあるだろう。
抽象的な、何も根拠のない妄言から、人を損失な目に合わすだろう。
しかし人の気持ちを掘り起こすのは、人のありのままの童心とごまかし、自分が存在したいというはみだした心である。
人間は綺麗なものではないが、汚いままでいいわけでもない。
しかしきっちり善悪の要素を分けて管理した場合、人は人じゃなくなるのであり、なんとかごまかしてほしいというのが人の気持ちである。
その心理の渦の中、会場、議論の場、社交場にいるとき、答えだけが必要ではないのである。
答えを導き出すための哲学が必要なのである。
そして哲学とは計算式ではない。人が知覚する意識の掘り起こしのために、期待された架け橋の言葉として、今なお生き残っている概念である。
期待されているから残っている言葉である。

哲学とは、余りある言葉の全てではない。その中の補いたいという言葉である。
人は言葉を説明するとき、物事を説明するとき、いつも哲学の存在を意識してしまうだろう。
説明できない余りある言葉という整頓のつかない多くの概念の中で、相手と、その他大勢に、何かそこに答えがあるのではないかという、認識をもたらす、概念価値を共有させるための架け橋の宣伝の言葉が哲学であり、哲学にも役に立たないガラクタのようなものもあるが、宣伝としての、人が共有するための概念の架け橋に哲学という言葉に期待する気持ちは、そこに心理と正道があるからである。
哲学に幻滅する事もあるだろう。哲学が無駄に膨らんで、期待していることと違う形を提示されることもあるだろう。
実際の言葉の説明で哲学を取り込もうとして、うまくいかない、まるで整合性がつかないことに悩まされるだろう。
哲学はいらない、強く意識するものではないと。
しかしである、哲学という期待性が毎回具体化される時がある。
それは知性のない人間を目の当たりしたときである。
人の物事の強行と成立と利益取得の実態を見るとき、あれだけいらないとしていた哲学の必要性が、また頭をもたげてくる。
知性のなさに対抗するのは、具体性ではない。哲学を使った上での具体性である。
物事を理解させる上でそこでなにが起きているのか、人が心臓を圧縮させて血圧と脳の神経を高めて、発散する力を作り出そうとするとき、なぜそこまで熱くなるのか。集中するのか。感情を費やそうとするのか。
そこには譲れない自分の生きるための糧のやり取りと、信頼と感謝と打算があるのであり、それをそのまま相手にぶつけても、それは失礼であり、いこじになるだけであり、しらをきられたら終わりである。
その心臓の働きから、相手の思うところ、人間性、社会、それらを一通りつなげて、物事を通すための背後に起きている根拠を成立させるのが哲学である。
しかし心臓の動きや、人間性といった主観的な見解に左右されやすいものまで、それらの観察と、分析は、とても具体性のあるものではない。
だからこそ哲学とは、余りある言葉を補うという説明の線でとどまっているのである。
哲学とは心理学なのか?心理学を含んだ社会学であり、社会学からの生産学、創造学、国家論、文明論、人の利益、利益として納得できる形、流動性、つまりは物事を成立させるための一通りの知識を裏で完結さえるのが哲学である。
哲学に期待されていることである。
そしてその本人が必要とする用途によって、強く大きく物事を広めなくてはならない。
その物事において他人が矛盾と不信感と整合性のなさを見抜く、それらの不合理を、全て答えとして形に出すのが哲学であり、心理は社会から生まれてるのであり、社会は文明から生まれているのであり、文明は生物の力から生まれているのであり、力とは糧から生まれているものである。それらは物事を説明したいとき、いちいち説明として付け加えることではない。
しかし物事の整合性は必要である。だからこそ言葉の上では簡単でも、丹念に練った倫理性を裏で走らせなければならない。


自分にとっての「高い」という概念と、相手にとっての「高い」という概念、そして相手にとっては「高い」という概念は忌むべきものであり、避けるべきものかもしれない。自分にとって見える概念と、他人にとって見える概念は違うのであり、ズレが生じているのである。言葉としてそれを埋めなくてはならない、しかしただ言葉を埋めるだけでは相手には通じない。しかし相手の同情を共有させたところで、社会意義に通貫させなければ、それはその場しのぎのものであり、問題の解決も求めるものとして使えない。物事を裏で走らせつつ、人の見える世界のズレと過大評価、そして自分の見える世界が過大的なものと思われていることを、順番にそうではないと事実を競いあって埋めていく、そして相手に見えている世界とはその人の生活と営みがあっての、その人の見える世界である。だからこそ文明と営みを理解して、更にはそのあり方の答えも持ち合わせなくてはならない。それは学校教育で習っていくだろう。相手に自分の世界を通じさせる、つまり自分の理想の世界に作り替えてしまうという、出来もしなさそうなありえないことをしなくてはならないとき、その物事の裏に倫理性を走らせること、そのやり方が本当に確かなことか、それを人の心情に沿う形で埋めて一応の形として手応えを感じるためのものが、哲学である。胡散臭いものも含まれるが、人に物事を伝える、自分が考えた世界を伝えるという空想とその裏付けを伝える「形」を、自分が確信を持たなくてはならない、それらは社会的な固有の言葉で学べるものではないのである。力の上に力がある、てこの原理による力の流れ、力を成立させている物があるとき、その下にまた力が流れているのであり、それは物の上に物が乗っているというよりも、結びつきの力ができた上に、結びつきの力が集まるという物であり、場所を取る広い力の形から、場所を取らない小さな形ができる、その力の流れという社会で固有名詞として学べれないことを、なんなのかと学ぶことが哲学であり、なぜ学ぶのかと問われたら、それは相手に物事を通じさせるためであり、その意義と成功が社会意義と文明意義に付随するためであり、哲学の意義、哲学に時間を使う意義とは、自分が傲慢な世界を提示した上で、それを理解させた上で、人が物を作るやる気と創造と理想に向かう物を増やそうとする意欲が乗っかるという、社会の捉え方の物事の整理の必要性である。つまりは人々が傲慢だと認めることである。それが傲慢な世界だろうと、秩序だった世界だろうと、世界を照らし合わせなくてはならない必要性に迫られる、つまりはすでに文明の意義と文明の成立順序が始まった上での、人が物事をごまかして自分の手柄と生産の利益を得ようとする物事のごまかしと学問のごまかしがあり、そのためにお互いが正しい世界観を競い合わなくてはならない必要性において、お互いの意思を整えるために、こぼれて落ちてきたものが哲学である。哲学とは文明の産物であり、世界観を競い合わなくてはならない必要性から生まれた利器である。


政治において、法律において人の世界観を競い合う必要はないと考えるならば、それは法律は大きな権利を認められて下ろされてくるものと理解してないからである。大きな権利、世界観はいつも塗り替えられる、塗り替えるための競い合いがなされているのであり、その競い合いが勝利した先に、政治と法律の形がある。そして人々の競いあいとは、国の協議を表すものであり、国の形とは法律によって体をなすが、国として協議しようとする代表の人間たちがその場所に現れるのは、法律のためではない。それぞれのぬりかえるための世界観である。その世界観の競技において、世界観自体は文明と道理を兼ね備えればいい、しかし相手に物事を理解させる、小さな正義、ねじ曲げられていること、そして本当に相手が勘違いさせられている世界を、解き明かすには、一体正しさ都はなんなのか、この考えがいる。これは社会の固有名詞では覚えることはできない。つまりは必要性となる新しいものがいるのである。哲学とは社会文明からこぼれ落ちてきたものである。哲学とは、自由に考えて、だれかれ自由な発想するもののためという、フワフワしたものではない。社会文明の意義の必要性を携える必要のあるものである。




社会固有名詞では習えない、倫理を裏で走らせる倫走を行うこと、そして相手の童心に追求して概念の思い込みを解いて、自分と相手の見える世界からの言葉の定義の食い違いを解いた上での、物事を通らせるため言葉を扱うものとして期待された概念それが哲学である。そしてその哲学の必要性を迫られるということは、世界観の協議という国の文明の価値観を競いあう場所が必ずあるということである。
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