面白いという評価のセンスが割られるときの話でもあるが。
まあ面白さでもなんでもいいが、とにかく「ある作品、ある芸術、ある人物、ある偉業」を褒め称えるときの「評」の定義が割れることについてである。
その1つとしての「面白い」という作品に対しての「評」が割れることの意味あいの定義について記していきたい。人が面白さを一生懸命評しようとするとき、そしてそれをまっこうから否定する人間がいるとき、その面白さという価値そのものの存在をなくされそうになる、面白さを伝えようとする側の人間には悲惨なことであり、この悲惨さがエネルギーをもったものだがら題しようと思う。
人は自分が面白いと感じたものは、確信を持って面白いと評するものである。
しかしなぜか、他人はその面白さを評価をしない。
大きく過小点として、総合の評価を低くしてくる。
おなじ要素で、同じ開放感をこの作品からうけたはずなのに、
その作品をその開放感の量で評価しようとしない。
自分が面白いと思うセンスのぶつかり合い、喧嘩、これは度々議論で起こり、
結局「面白さとは決定しない」という結論に悩まされることは多々あるだろう。
なあなあの結果になるであれば、別にいい。
しかし自分は面白さを確信したのである。
悩みになるのが、どう考えても自分は面白さを確信しているのに、そして相手も喜ぶはずなのに、
相手の説明より、どう考えても優れた説明をしているのに、それを相手は評価の要点とせず、お互いの統一評価として、採用しないで他の点をとりあげることである。
この「面白さとは普遍的なのに、なぜこうも強く拒絶されるのか」という強い損失感は、
「面白さの評を割られる」という状況は、実は悲惨な「相対認識」をはらんでいるのであり、
それを解決すれば、面白いということは相手に伝わる「評」が完成するが、それを知ると、逆に「面白さの評を割られること」が幸せだったと感じるかもしれない。
悲惨というのは「この面白いさは普遍的なのに」という、確信をもっていながら、
「面白さとは他人によって違うものであり、決定できるものではない」ということで済ましてしまうことができるからである。しかし確信しているのを揺るがないのである。
不幸せな結果とは、面白さを決定させるとき、ルールを付け加えなくてはらないのであり、
つまり単純に面白さを語りたいというのにという当初の目的から、いらない比較要素を付けなくてはならず、面白さが半減してしまうからである。
面白さを決定するのは、面白さを決定する解放の質の比較が必要となる。
面白さを決定できないと結論をだすにも「比較要素に含まれていない」という、比較要素の選択がなければ、何に対して面白さはないかという言葉としての論は存在しないこととなる。
しかし比較要素を受け入れることは「その比較要素自体には、なんの恩も笑わせてもらった記憶もないし、自分の面白いという評を下げる要素をなぜいれなくてはならないのだ」という、
単純に面白さを語る上で、相手が譲る必要性がそこにはないのである。
面白いと評を決定する要素は人によって、単純に見ても2つに別れる。
個人的面白さの要素見解か、
社会的認知における開放の面白さか、個人と社会意義の見解の相違である。
しかしどちらとも1つの「面白い」という言葉で評価を表すことができてしまう。
すことが同じでも、伝えようとすることが違う、つまり相手の思っていることが何であるか考えれば、面白さの検証が成立するはずだが、なぜか「何か」に対してどっちかが、またはお互いが意地をはるのである。
確かに相手を自分の世界の礎にハメようとするのは、相手に礼儀が足らない行為だが、相手が自分をハメようとする相手でしかも、面白さの検証ということを理解出来ない相手なら、そのまま見逃すわけにもいかず、面白いという評の価値を示さなくてはならないが、そこまで臨んだとしてもお互いの意見ならいざしらず、「評」という意味でも、一致が成立しないで仲違いで終わるのであり、面白いという「評」は、「評」として落ち着かせるべき、成立させるべきという状態まで片一方が持って行って、
それを「評」と呼ぶことが精一杯である。「評」といいながら、片一方が確信を持ってそこまで持って行こうとする「評の確かさ」を、「面白さの評」となることに納得しなくてはならない。
それでは一生懸命、面白いよと言い切ったほうが、面白いという評価になるのだろうか。
面白さという確定する要素は、お互いの相対認識の問題もあるが、要素として存在するし、存在に値するもの、仕様価値がある。
社会的にみんな困っていて、それをみんなで解放することに感動を覚えるか、
自分自身が惨めな思いをしている時、それを開放することができるものこそ至宝の価値とするのか、個人を感情で解放させることも、社会を解放させることもそれは面白いことであるが、
個人の感想を述べる状況によってそれはまったく違った評にもなる。
そして敵視する側から見れば、相手の意見は、社会性意義を説いたものは媚びた物、個人的開放感に焦点を当てたものはマニアックな物と、自分が面白いと思ったものでも、自分自身を顧みないものであれば作品評価全く違う。
他人から見れば、その本人は面白いということが言いたいのではなく、自分にとって解放されたことであって、それが他人にとっては面白いということではないという違いである。
質の高さの比較を幾つか上げて、客観的にその開放要素を議論しなければ、面白さというものは決定することはない。
ただ単純に面白いという事を素直に伝えたいだけという目的から見れば、
こんな地道な研究のような行為はまったくやりたくない議論である。
だからこそ「悲惨」なのである。
しかしこの比較要素を決定しなければ、言葉としての論として成立することはない。
論がなければ、「自分では面白い」と確信しても、他人にとっては「知らん」の一言で済む状況であり、もし自分が評価している作品なら、評論は頼りたくなるものである。
しかし自分が面白さに確信をもっており、それを伝えたいとどうしても思うなら、
議論に展開することも受け入れるだろう。
だが面白さを決定したいと思っても、相手が議論に参加しない場合がある。
面白さの意見を言っておきながら。
議論の参加の有無もそうだが、議論の進め方の理解と考え方が相手に求められる。
悲惨なのは「面白さとは決定できない」という結論に至ることである。
相手が議論に応じなければ、もっと悲惨である。
しかしさらに悲惨なのは、自分の面白さへの確信と面白いという決定要素はないというなげやりな議論という物への信頼のなさという、面白さの評とは関係ない、相手の人間性において考え方の追求をしなくてはならないことだろう。
面白さという評論が割れるとき、それは悲惨なものである。
だが面白さを評論するということは、議論に応じる知性の約束事を持たなくてはならない。
さらに議論という力が、人の概念の決定を及ぼすかどうか解らない、それすらも議論として要求される場合もあるし、自分か他人、どちらかがついていけなくて放棄する場合もある。
まったく「楽しさを伝える」という目的とは関係がないのに。
悲惨なのは、議論というものが本来の目的とは違う人間性の追求をはらんでいることである。
議論が進まないとき、どちらかが自分の気持は理解されるべきという、相手を固定する意志に他ならない。
これは子どもじみた行為であり、その議論に応じる以上、
その議論の意味が通る・どのくらい理解される、「客観的に何%かの割合」で通じるべき事柄を要素として語るべきであり、
目的とする議題の結論を自分の主観で決定するのであれば、
人間定義ができる人間でなければ、話し合えることはない。
自分がどういう生活をしていて、どれだけセンスをあふれる生活の満足をこなしているか、
それをごまかして、そういう人物像をごまかして、
どういう人間を喜ばして、どういう効果をあげるのか、これが面白いということであり、
この影響の過程を面白いかどうかを語ることが、定義の変化の成立であり、
更にいい効果、悪い効果を引き合い出すことでの、
ただ感情が爆発したから、面白い。これでは個人的なことか、社会的なことか、自分のセンスを偽った話であるか、社会的センスを偽った話であるか、感情の爆発をするものは、いくつかの面で発生するのであり、感情の爆発は絶対でありそれを否定するということはセンスがないという議論の殺り合いなら、それは当然感情が爆発すれば面白いのであって、それが「なんなのか」ということが、相手と面白さという定義を整える本質、本題である。
日本という国に評価表現おいて、
自分が見て、多くの爆発的要素を含めている、これだけで面白いという表現をするのは、
物事を伝える物語の中で人間を偽るという要素が物事の伝達の障害となり、
その偽りがなんなのかを含むことで物事の定義を語るということを理解してない表れであり、、
相対認識の欠如の点からみると、面白いということを認識の軸としてしまうために、これは面白いから面白いという定義付けが、面白いということを定義の目的にしていて、他の面白くないとするどれだけのものが爆発に至らないものかを比較として表現していない。
面白いと表現するのは、その人間の人間性と、嫌がられていないか、そして分析の一端を表すものに過ぎないのであって、全体的に面白いという評価という一致を埋め合わせるには、その人達がどれだけ自分を顧みれるかの「パラメーター」によって表されるのであり、
残念ながら、面白いと評している人間を外から見た人間の表現の「度合いと質」での状況わけで、その評価を更に外から見た人が評価するしかないというのが、「面白い」という評価表現の限界である。
面白さは面白さにあらず、正しさは正しさにあらず、
評価する人間が、経歴があるかないか、その経歴は飛ばして得たものか堅実に得たものか、そして経歴がないとするなら、経歴を人が積み重ねることに対しての温情はあるのかといった、人の生きる上での平等な評価論、地道さを評価する見識論、才能として認められるべき地道な運営哲学を持っているかどうか、解放の要因をどれだけ用意できたの「計算された職人気質」がその作品を評価するうえで、揺るぎない要素提言となる。
面白さとは、爆発にいたるまでの計算方法の高さである。そしてその評する人達自身と批判する人達自身が、「技術を理解しているように偽っているかどうか」の、技術を積み上げてない空白の部分への追求を「聞く耳があるか構成、体制」であるかどうかである。
しかしながら、聞く耳があるかないか問いただす側も、「勝手に判別する側」であり、
お互いその判別方法と、面白いというからにはその要素の確立したものとその質を比較する対象を並べる、責任と損失を受け入れなければならないのであり、
面白いというのは評することではなく、「わざわざ評される覚悟をさらすことば」である。
確定した面白いという言葉など、相手の状態・社会の状態を無視した、
相手の変化待ちとしか言いようがない言葉である。
そして相手が、面白いという議論に対して「柔軟に議論を交わしてくれる」と前提とした言葉である。
最低でも面白いと評するものを赤の他人の議論の場に持ち出すのであれば、
「爆発の質の高さ」の比較によって、決定されるのであり、
それで認めてもらえなければ、
「じゃあなんによって面白さを認めているのだ、」という
相手の自分のセンスの偽りによって認めているのではという、
違う問題に発展することとなる。
また、他人のセンスの偽りに言及する議論を長々と続けることを容認してもらえる場所でなければ、
、とてもじゃないが「面白い」という議論のはじまりだけでは、自分のセンスを「比較定義」を受け入れるか、受けれ入れないかを宣言してないということであり、それはセンスの押し付けだけに終わってしまう。
センスの受け入れの表明をするか、しないか、それをお互いの看板として掲げなければ、面白いという議論は成り立たない相対認識である。
更には、自分の知っている作品の中では爆発の質の高さの比較をしながら、他人がもちだす爆発の質の高さの比較例には、まるで納得しない。自分が知らない作品だから。これは自分の好きなことを話したいのか、他人との一般共通を共有させたいのか、作品を広めたいのか、自分の価値基準の価値を保持したいことへ目的が映っているのか、同じ面白いという議題の始まりにおいても、目的は変化して言ってるのであり、いつの間にか、作品を知ってもらいたいからという主張から、自分の価値基準は根拠があるという証明、しかし他人から意見を受け入れるのは作品をただ広めたいだけだからという、「作品の質を決定させたいのか、決定させているのか」、それをとがめるルールも存在しなことであり、ここでルールを提言するということになれば、その人間の人間性、経歴の考え方、人の社会的運営に対しての考え方、つまりルールがよりスマートで倫理的であり、意義や定義のあるものかどうか、そういう人間性が見透かし合う話まで発展することとなる。
全く知らない他人と、面白いということの話し合いにおいて、自分にとって面白かったのか、作品として面白いと思われるべきなのか、この宣言もなしに面白さを語り合うのは無茶なのである。
これは面白いという定義が複雑なのではない、相対認識のずれによる議題の移行が複雑なのであり、相対認識を固定するためには必ず宣言やルールの固定が必要となり、そのルールを破る人間と、そのルールにくくる人間、どっちが本当に面白いことを知っているのかという話に、それでもなるのであり、やはり面白さというのは人間の社会哲学の積み重ねの計算性をいい合わそうもので、面白さという定義そのものをいい争うということを意味するのである。
他の言葉でもなんでもそうだが、いきなり自分の世界観をぶつけることは、社会哲学への言及へ行き着く、より遠回りな、そしてお互いが放棄する方法に過ぎない。
それでも人々は、面白いという評を議論をするとき、爆発の質の高さの比較の受け入れを表明しないまま、ルールを面白いという議論をいきなりはじめるのである。
しかし、これは人間性においての感受性の競い合いをいつでも受け入れる体制があるという自負であり、いつでも人間性の競い合いを拒否する体制でもある。
要は面白いという評をいきなり始めることは、人間性の競い合いに議論は雪崩れ込むが、議論を始めた方は、自分たちが優位な人間性評価になるのであれば、人間性評価を続け、優位でない状況に進んでいくのであれば、人間性評価など全く関係ないと、勝手に議論を遮断する選択権をもてるのであり、混沌とさせときながら選択取捨の状況を使うという、自分たちに決着権を持ったほうが面白い「混沌の優位性」を楽しむための、人間の手抜き行為の悪い部分が、いきなり評する議論をすることの要因でもある。
もちろん本当に面白いという評を定めたいのであれば、質の高さの比較によるものをまず宣言するべきである。
しかしそれでは面白いという評する人間たちにとって面白く無い。
自分たちに優位に話をすすめ、自分たちに優位な状況でなければ、話を遮断する、それが最高に面白いのであり、そうでなければ面白いという評を真面目に話しあうなど、全然興奮などできないのである。
面白いといきなり評する話を始めるのは、面白さを評すること自体を目的とするためではなく、議論の行き着く先が「混沌」だと分かっておりながら、それを遮断する権利を保持している「自負と安心感」を予想できること、決して悪い予感はそこにはないと思えるから、始める評議の行為である。
もしあなたがどうしても面白ものを伝えたいという気持ち、そして同時に自分に素晴らしい時間をくれた面白いものを貶す人間が来たとき、行き着く問題は、相手が質の高さの比較の主張を受け入れてくれないことと、そして相手の社会的哲学の考え方の競い合いに移行しているだろう。そしてそれが途中で終わっているだろう。それは「面白いと思うのだから、面白い」という目的に摩り替わっているからである。
面白いと発言するときの人間は気づいているし、覚悟があるはずである。これは周りに伝えるタメの言葉であるし、周りと比較して結論づいたゆえの発言として周り受け止められることを。しかし人は自分の決定権をほしいがために「面白いというのはすでに伝わった、確定したもの」という定義に変える行為をする。なら最初からそう言うべきだし、伝わって当然という発言で、周りからそれは人間性がおかしいと問い詰められても、それだったら怒ることはないだろう。
人間性への議論が怖いから「面白い」ということを伝える・共有する行為だということを忘れてはならない。そして同時に定義を決定しないことは、人間性への議論の継続の決定権を保有するための行為であって、議論を決定するための行為ではないのである。
結局のところ、その人にとっての人間性の議論の逃げか、挑戦か、それが「面白さ」という事を伝えるべきか、伝わって当然とする考えかの、揺れ動きに表れてくるのである。
面白いという単純な気持ちでの評が割れるとき、また割らなくてはならないとき、お互いの人間性の問い詰めの議論を最終的には本筋としなくてはならないことは非常に辛いというか、体力を削るものである。そして評が割られるときは、人間性の問い詰めから始まるものである。
しかし人間性・社会哲学の理解の議論をゆるさない・人間性の議論が全く偏った中での面白いという評の中での空間は、もっとつらいものである。