平等という概念は存在しない

あるのは「偏りを崩すことによる、利の配布による平等の先導」である。

平等とは「ある特定の人間にしか付与されない」ものである。
厳密には、今から何かを始めようとする人間、事業を始めようとする人間にとって、既得利権に利益や権利を大幅にとられないこと、邪魔されないこと、既得権に太刀打ち出来ない様な状況において、もっと平等な競争をしようという提言であり、そういう「中間的な生産事業者」にとって、平等という権利はあり、
全体に対して真の平等という概念はない。

結局、物事を始めるとき、自分が何か創造を始めようとするとき、自分の計画においての、生産に従事する人間の多くを必要とするのであり、また生産に従事する人達が産み出した、社会の利益の流れを拝借させて、物事とは生み出し、売り込むことができ、その流れから利益を得ることができる。「何かを当て」にして、自分の新しい考えとは、おおきな成果を含むのである。

従事する人間がいることを前提にするということは、すでにそこは平等ではない。誰かを「働かせて、自分だけがそのアイデアを実施する」ということは、平等と不平等を兼ね添えた上での、平等の切望である。

万人が平等ということは「事業が始められない」ということを意味し、生産原理を否定することである。それでも「事業が始まる世の中」というのは、いきなり「平等」と叫びながら、平等を無視する世の中という事となる。

しかし「世の中は不平等」である。平等は主張しなくてはならない。だからこそ「中間権利者」が組織をまとめ、そこにいる全員で被害を装うことで、平等は主張することができる。

しかしその組織において、上下が成立しているのであり、そこで平等を否定しているのである。
平等を真にうけた先にあるものは「内部崩壊」である。





もし全体の平等がないとして、「中間権利者」に平等を与えたとするならば、
それによって世の中は「力の流れにおいて平等」を意味することとなる。
万人が平等という考えは「物の流れが、距離、時間、によって売買の価値が生まれる個人差」を否定するものである。中間の「納得の平等」を通すことで、全ての平等は平等として捉えることができるのである。


「物質、心、距離」
心が豊かであれば、貧しくてもいいというが、心とは正確に言えば「意識に使った時間」である。貧しさとは「生産従事の自負」である。田舎と都会の暮らしとった、生活距離による平等もあるだろう。この3つにおいても、それぞれが全て平等という主張をしあったら、喧嘩が起きるだろう。それらは平等を譲る権利でもないからである。そして自分だけが平等でいいという考えと、全体が平等ないといけないという考えも、ぶつかるだろう。そしてこれらの平等の提言を発する人間が「既得権にいる人間」によるものなら、言葉の平等という考えが必要だろう。つまり偏りを生み出している人間の利を減らすことが平等であり、「利を減らす」という考えを持たなければ、平等を成立させることはできないのであり、「利を減らす」という提言をする人間は、何かにぶつかるということである。


真の平等とは「事業を始める中間権利者」に与えられる事を指し、
全体被害者による「片一方の全体理想論」を相手にぶつけることを平等という。
単純にお互いに平等をぶつけ合うことは「偏り」を認めさせる行為に過ぎない。
国という平等を期待するなら「国という権利事業者」に従うしかないのであり、
国を否定するなら「人権指導者」に従うしかないのである。


もし全体主義者が、単純な平等を強く主張する「倫理観」が世の中にあり、それを否定出来ない世の中なら、そこには「矛盾と欺瞞に満ちた平等と自分の機会の平等を望む」といった、足を引っ張り合う世界があるだろう。


世の中とは、利を偏らせるものを攻撃することでしか、物事の正当性ははじまらないのである。
「知的な組織」とは、平等を口にしながら、自分たちの利を得る上下関係を認めている組織である。
そして純粋な平等主義者は、「仲間割れ」の世界に実を投じることになるだろう。
だれかが平等の成り立ちの原理を教えない限り。

更に物事の原理とは「通すこと」であり、「攻撃すること」から始まるのである。
なぜわざわざ原理を提言するのか。それは誰かが原理を曲げている、理解させないようにしているからであり、成立してないからである。
平等とは誰かを攻撃してこそ、平等である。
平和とは誰かを攻撃してこそ、平和である。
嫌な物事を通さない人間がいたら、攻撃することである。
それをしないということは、ごまかす、だます、という現象が起き、
何が正しいのかわからなくなるのは当然である。
平等とは「平等を偏らせるもの」がいるから、主張するものである。
平和とは「平和を乱す物」がいるから、主張するものである。
攻撃を否定することは簡単である。平等と平和をぶつければいい。
しかし攻撃という物事の始まりを否定して、どうして偏らせるものを攻撃できるのか。

大事なのは「攻撃をする」という行為が、「何に対して平等か」という慈悲の防衛線を引くことにある。
絶対攻撃することは曲げてはならないし、「物事を偏らせる攻撃」と一緒くたにされてはいけない。
もし何に対して平等かとするならば「物事の力の流れ」を平等にすることである。

そして「物事のはじまり」とは、「言葉の配布量」である。
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成果を出さないおしゃべり好きなやっかいな人間

「成果を出さないおしゃべり人間とは、
こちらが押せば守りに入り、黙れば説明できないでしょ、と挑発的になる、
どこにも目標に向いていない会話をしてくる人間であり、
目的を出すための組み立ての能力がない人間が行う会話行為であり、
成果を追求しない会話に対しては、なんでそんなことを言えるのか投げかけ、
成果を追求すると、守りに入る。
「実はそう考えていた、わかっていた」と、結果だけの意志を提示する、
途中の組み立てる能力の証明は全くやらない人間は、
やっかいである。
勝手に今まで経過に時間と労力を費やしてきたかのように、疲れ、
共に歩んできたかのように、悦に入る。
これは頭の中で能力を費やしてきたことが、自分がポーズを決めれる格好の良さが、
成立している証明となるという

これは物事の積立を理解しているというより、
人の思いやりや頑張りなどの共感を得る部分を理解することで、
そのものの成果を、自分の思いやりと共に、
否定すべきではないものとして発表することで、
自分の発言も潰されるべきではないとして、どうなんでしょうか?という考えと知性を含めた意味で発言をする。
しかし成果として能力と具体性を求められれば、
思いやりの無さを主張する、と同時に思いやりだけが世の中の全てではないと主張することでの
「自分は弱い人間だから」という事を主張する。

そのどちらも、思いやりの有無の理解ができることと、
思いやりの知覚ができることがいい悪いなぜ言えるのかを問われることはないという、
計算に基づいた会話である。

厄介なのは、答えを出したい側の人間からすれば、その思いやりの理解などはどうでもいいことであり、
しかしなおそれを踏まえ「それでも否定出来ないんでしょ」と思いやりの有無のあり方だけに
固執をして、その問題に取り組めば、悦に入り、その問題を横にやれば「逃げた」として、
あきらめと、許しを見せるポーズをとる。
答えに全く進まないのが厄介なのである。


「説明できないでしょう?」
「でも私が許してあげる」
「私って弱い人間なのよね」

この3つの立場の切り替えを利用して、しゃべり続ける人間を
成果を出さないおしゃべり好きな人間の例であり、
全ては思いやりの悦と、諦めと許しの結果に固執した会話をしてくる人間である。

突破口は、相手を無視して、現実的な理論をぶつけ、それに対して冷酷すぎると言われれば、
世の中の利益とその恩恵とそれを偏らせるものと、それを偏らせる人間がどうであるのか説明をすればいい。
相手は思いやりだけの悦と許しを求めているのであり、あくまで自分は思いやりを理解している知性側にいる人間ということを軸としているので、
そういう偏らせる人間と同類になりたくないと、自分を弁解するだろう。

やっかいなのは超現実論を理論として成立させなくてはならないことである。
それができなければ、相手は自分に挑発に似たよな許しを与えてきて、そして同意に対しては悦と一緒に立ち向かおうという許可と、それに油断してはいけないという厳しい態度を与えてくるだろう。

答えを出さなければ、下に見られ許しを与えられ、答えを出せば一緒に頑張ろうという、余裕があって、でも自分はそういう事は考えていたという更に上にいる態度を取り、対等という態度をとろうとしない。そもそも対等とかそんなことどうでもいいから、物事の話をしたい時に、思いやりを否定する感情を引き出すような、その判決を出来る自分を能力としてみせる、そのやりとりは本当にその場で求めているものではなく、厄介であると言えるだろう。
こういう時のために、「物事」と「善悪」の理解というのは非常に大切になるだろう。相手の矛盾した主張願望を指摘するために。自己の悦と許ししか与えてこない相手に、それを疑問に思う自分の思いやりのやり取りをこなせない理解の無さが自分の方にあるのではないのかという考えになってしまうことになるからである。
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「面白さ」という評価を決定する方法



面白いという評価のセンスが割られるときの話でもあるが。
まあ面白さでもなんでもいいが、とにかく「ある作品、ある芸術、ある人物、ある偉業」を褒め称えるときの「評」の定義が割れることについてである。
その1つとしての「面白い」という作品に対しての「評」が割れることの意味あいの定義について記していきたい。人が面白さを一生懸命評しようとするとき、そしてそれをまっこうから否定する人間がいるとき、その面白さという価値そのものの存在をなくされそうになる、面白さを伝えようとする側の人間には悲惨なことであり、この悲惨さがエネルギーをもったものだがら題しようと思う。

人は自分が面白いと感じたものは、確信を持って面白いと評するものである。
しかしなぜか、他人はその面白さを評価をしない。
大きく過小点として、総合の評価を低くしてくる。
おなじ要素で、同じ開放感をこの作品からうけたはずなのに、
その作品をその開放感の量で評価しようとしない。

自分が面白いと思うセンスのぶつかり合い、喧嘩、これは度々議論で起こり、
結局「面白さとは決定しない」という結論に悩まされることは多々あるだろう。

なあなあの結果になるであれば、別にいい。
しかし自分は面白さを確信したのである。
悩みになるのが、どう考えても自分は面白さを確信しているのに、そして相手も喜ぶはずなのに、
相手の説明より、どう考えても優れた説明をしているのに、それを相手は評価の要点とせず、お互いの統一評価として、採用しないで他の点をとりあげることである。

この「面白さとは普遍的なのに、なぜこうも強く拒絶されるのか」という強い損失感は、
「面白さの評を割られる」という状況は、実は悲惨な「相対認識」をはらんでいるのであり、
それを解決すれば、面白いということは相手に伝わる「評」が完成するが、それを知ると、逆に「面白さの評を割られること」が幸せだったと感じるかもしれない。

悲惨というのは「この面白いさは普遍的なのに」という、確信をもっていながら、
「面白さとは他人によって違うものであり、決定できるものではない」ということで済ましてしまうことができるからである。しかし確信しているのを揺るがないのである。

不幸せな結果とは、面白さを決定させるとき、ルールを付け加えなくてはらないのであり、
つまり単純に面白さを語りたいというのにという当初の目的から、いらない比較要素を付けなくてはならず、面白さが半減してしまうからである。

面白さを決定するのは、面白さを決定する解放の質の比較が必要となる。
面白さを決定できないと結論をだすにも「比較要素に含まれていない」という、比較要素の選択がなければ、何に対して面白さはないかという言葉としての論は存在しないこととなる。
しかし比較要素を受け入れることは「その比較要素自体には、なんの恩も笑わせてもらった記憶もないし、自分の面白いという評を下げる要素をなぜいれなくてはならないのだ」という、
単純に面白さを語る上で、相手が譲る必要性がそこにはないのである。

面白いと評を決定する要素は人によって、単純に見ても2つに別れる。
個人的面白さの要素見解か、
社会的認知における開放の面白さか、個人と社会意義の見解の相違である。
しかしどちらとも1つの「面白い」という言葉で評価を表すことができてしまう。
すことが同じでも、伝えようとすることが違う、つまり相手の思っていることが何であるか考えれば、面白さの検証が成立するはずだが、なぜか「何か」に対してどっちかが、またはお互いが意地をはるのである。
確かに相手を自分の世界の礎にハメようとするのは、相手に礼儀が足らない行為だが、相手が自分をハメようとする相手でしかも、面白さの検証ということを理解出来ない相手なら、そのまま見逃すわけにもいかず、面白いという評の価値を示さなくてはならないが、そこまで臨んだとしてもお互いの意見ならいざしらず、「評」という意味でも、一致が成立しないで仲違いで終わるのであり、面白いという「評」は、「評」として落ち着かせるべき、成立させるべきという状態まで片一方が持って行って、
それを「評」と呼ぶことが精一杯である。「評」といいながら、片一方が確信を持ってそこまで持って行こうとする「評の確かさ」を、「面白さの評」となることに納得しなくてはならない。
それでは一生懸命、面白いよと言い切ったほうが、面白いという評価になるのだろうか。
面白さという確定する要素は、お互いの相対認識の問題もあるが、要素として存在するし、存在に値するもの、仕様価値がある。

社会的にみんな困っていて、それをみんなで解放することに感動を覚えるか、
自分自身が惨めな思いをしている時、それを開放することができるものこそ至宝の価値とするのか、個人を感情で解放させることも、社会を解放させることもそれは面白いことであるが、
個人の感想を述べる状況によってそれはまったく違った評にもなる。
そして敵視する側から見れば、相手の意見は、社会性意義を説いたものは媚びた物、個人的開放感に焦点を当てたものはマニアックな物と、自分が面白いと思ったものでも、自分自身を顧みないものであれば作品評価全く違う。
他人から見れば、その本人は面白いということが言いたいのではなく、自分にとって解放されたことであって、それが他人にとっては面白いということではないという違いである。

質の高さの比較を幾つか上げて、客観的にその開放要素を議論しなければ、面白さというものは決定することはない。

ただ単純に面白いという事を素直に伝えたいだけという目的から見れば、
こんな地道な研究のような行為はまったくやりたくない議論である。
だからこそ「悲惨」なのである。
しかしこの比較要素を決定しなければ、言葉としての論として成立することはない。
論がなければ、「自分では面白い」と確信しても、他人にとっては「知らん」の一言で済む状況であり、もし自分が評価している作品なら、評論は頼りたくなるものである。


しかし自分が面白さに確信をもっており、それを伝えたいとどうしても思うなら、
議論に展開することも受け入れるだろう。
だが面白さを決定したいと思っても、相手が議論に参加しない場合がある。
面白さの意見を言っておきながら。
議論の参加の有無もそうだが、議論の進め方の理解と考え方が相手に求められる。

悲惨なのは「面白さとは決定できない」という結論に至ることである。
その条件を満たす議論まで進んでいないのに。
相手が議論に応じなければ、もっと悲惨である。


しかしさらに悲惨なのは、自分の面白さへの確信と面白いという決定要素はないというなげやりな議論という物への信頼のなさという、面白さの評とは関係ない、相手の人間性において考え方の追求をしなくてはならないことだろう。

面白さという評論が割れるとき、それは悲惨なものである。
だが面白さを評論するということは、議論に応じる知性の約束事を持たなくてはならない。
さらに議論という力が、人の概念の決定を及ぼすかどうか解らない、それすらも議論として要求される場合もあるし、自分か他人、どちらかがついていけなくて放棄する場合もある。
まったく「楽しさを伝える」という目的とは関係がないのに。


悲惨なのは、議論というものが本来の目的とは違う人間性の追求をはらんでいることである。
議論が進まないとき、どちらかが自分の気持は理解されるべきという、相手を固定する意志に他ならない。
これは子どもじみた行為であり、その議論に応じる以上、
その議論の意味が通る・どのくらい理解される、「客観的に何%かの割合」で通じるべき事柄を要素として語るべきであり、
目的とする議題の結論を自分の主観で決定するのであれば、



人間定義ができる人間でなければ、話し合えることはない。
自分がどういう生活をしていて、どれだけセンスをあふれる生活の満足をこなしているか、
それをごまかして、そういう人物像をごまかして、

どういう人間を喜ばして、どういう効果をあげるのか、これが面白いということであり、
この影響の過程を面白いかどうかを語ることが、定義の変化の成立であり、
更にいい効果、悪い効果を引き合い出すことでの、

ただ感情が爆発したから、面白い。これでは個人的なことか、社会的なことか、自分のセンスを偽った話であるか、社会的センスを偽った話であるか、感情の爆発をするものは、いくつかの面で発生するのであり、感情の爆発は絶対でありそれを否定するということはセンスがないという議論の殺り合いなら、それは当然感情が爆発すれば面白いのであって、それが「なんなのか」ということが、相手と面白さという定義を整える本質、本題である。

日本という国に評価表現おいて、
自分が見て、多くの爆発的要素を含めている、これだけで面白いという表現をするのは、
物事を伝える物語の中で人間を偽るという要素が物事の伝達の障害となり、
その偽りがなんなのかを含むことで物事の定義を語るということを理解してない表れであり、、
相対認識の欠如の点からみると、面白いということを認識の軸としてしまうために、これは面白いから面白いという定義付けが、面白いということを定義の目的にしていて、他の面白くないとするどれだけのものが爆発に至らないものかを比較として表現していない。
面白いと表現するのは、その人間の人間性と、嫌がられていないか、そして分析の一端を表すものに過ぎないのであって、全体的に面白いという評価という一致を埋め合わせるには、その人達がどれだけ自分を顧みれるかの「パラメーター」によって表されるのであり、
残念ながら、面白いと評している人間を外から見た人間の表現の「度合いと質」での状況わけで、その評価を更に外から見た人が評価するしかないというのが、「面白い」という評価表現の限界である。


面白さは面白さにあらず、正しさは正しさにあらず、
評価する人間が、経歴があるかないか、その経歴は飛ばして得たものか堅実に得たものか、そして経歴がないとするなら、経歴を人が積み重ねることに対しての温情はあるのかといった、人の生きる上での平等な評価論、地道さを評価する見識論、才能として認められるべき地道な運営哲学を持っているかどうか、解放の要因をどれだけ用意できたの「計算された職人気質」がその作品を評価するうえで、揺るぎない要素提言となる。

面白さとは、爆発にいたるまでの計算方法の高さである。そしてその評する人達自身と批判する人達自身が、「技術を理解しているように偽っているかどうか」の、技術を積み上げてない空白の部分への追求を「聞く耳があるか構成、体制」であるかどうかである。
しかしながら、聞く耳があるかないか問いただす側も、「勝手に判別する側」であり、
お互いその判別方法と、面白いというからにはその要素の確立したものとその質を比較する対象を並べる、責任と損失を受け入れなければならないのであり、
面白いというのは評することではなく、「わざわざ評される覚悟をさらすことば」である。
確定した面白いという言葉など、相手の状態・社会の状態を無視した、
相手の変化待ちとしか言いようがない言葉である。
そして相手が、面白いという議論に対して「柔軟に議論を交わしてくれる」と前提とした言葉である。

最低でも面白いと評するものを赤の他人の議論の場に持ち出すのであれば、
「爆発の質の高さ」の比較によって、決定されるのであり、
それで認めてもらえなければ、
「じゃあなんによって面白さを認めているのだ、」という
相手の自分のセンスの偽りによって認めているのではという、
違う問題に発展することとなる。
また、他人のセンスの偽りに言及する議論を長々と続けることを容認してもらえる場所でなければ、
、とてもじゃないが「面白い」という議論のはじまりだけでは、自分のセンスを「比較定義」を受け入れるか、受けれ入れないかを宣言してないということであり、それはセンスの押し付けだけに終わってしまう。
センスの受け入れの表明をするか、しないか、それをお互いの看板として掲げなければ、面白いという議論は成り立たない相対認識である。

更には、自分の知っている作品の中では爆発の質の高さの比較をしながら、他人がもちだす爆発の質の高さの比較例には、まるで納得しない。自分が知らない作品だから。これは自分の好きなことを話したいのか、他人との一般共通を共有させたいのか、作品を広めたいのか、自分の価値基準の価値を保持したいことへ目的が映っているのか、同じ面白いという議題の始まりにおいても、目的は変化して言ってるのであり、いつの間にか、作品を知ってもらいたいからという主張から、自分の価値基準は根拠があるという証明、しかし他人から意見を受け入れるのは作品をただ広めたいだけだからという、「作品の質を決定させたいのか、決定させているのか」、それをとがめるルールも存在しなことであり、ここでルールを提言するということになれば、その人間の人間性、経歴の考え方、人の社会的運営に対しての考え方、つまりルールがよりスマートで倫理的であり、意義や定義のあるものかどうか、そういう人間性が見透かし合う話まで発展することとなる。

全く知らない他人と、面白いということの話し合いにおいて、自分にとって面白かったのか、作品として面白いと思われるべきなのか、この宣言もなしに面白さを語り合うのは無茶なのである。
これは面白いという定義が複雑なのではない、相対認識のずれによる議題の移行が複雑なのであり、相対認識を固定するためには必ず宣言やルールの固定が必要となり、そのルールを破る人間と、そのルールにくくる人間、どっちが本当に面白いことを知っているのかという話に、それでもなるのであり、やはり面白さというのは人間の社会哲学の積み重ねの計算性をいい合わそうもので、面白さという定義そのものをいい争うということを意味するのである。

他の言葉でもなんでもそうだが、いきなり自分の世界観をぶつけることは、社会哲学への言及へ行き着く、より遠回りな、そしてお互いが放棄する方法に過ぎない。
それでも人々は、面白いという評を議論をするとき、爆発の質の高さの比較の受け入れを表明しないまま、ルールを面白いという議論をいきなりはじめるのである。

しかし、これは人間性においての感受性の競い合いをいつでも受け入れる体制があるという自負であり、いつでも人間性の競い合いを拒否する体制でもある。
要は面白いという評をいきなり始めることは、人間性の競い合いに議論は雪崩れ込むが、議論を始めた方は、自分たちが優位な人間性評価になるのであれば、人間性評価を続け、優位でない状況に進んでいくのであれば、人間性評価など全く関係ないと、勝手に議論を遮断する選択権をもてるのであり、混沌とさせときながら選択取捨の状況を使うという、自分たちに決着権を持ったほうが面白い「混沌の優位性」を楽しむための、人間の手抜き行為の悪い部分が、いきなり評する議論をすることの要因でもある。

もちろん本当に面白いという評を定めたいのであれば、質の高さの比較によるものをまず宣言するべきである。
しかしそれでは面白いという評する人間たちにとって面白く無い。
自分たちに優位に話をすすめ、自分たちに優位な状況でなければ、話を遮断する、それが最高に面白いのであり、そうでなければ面白いという評を真面目に話しあうなど、全然興奮などできないのである。

面白いといきなり評する話を始めるのは、面白さを評すること自体を目的とするためではなく、議論の行き着く先が「混沌」だと分かっておりながら、それを遮断する権利を保持している「自負と安心感」を予想できること、決して悪い予感はそこにはないと思えるから、始める評議の行為である。

もしあなたがどうしても面白ものを伝えたいという気持ち、そして同時に自分に素晴らしい時間をくれた面白いものを貶す人間が来たとき、行き着く問題は、相手が質の高さの比較の主張を受け入れてくれないことと、そして相手の社会的哲学の考え方の競い合いに移行しているだろう。そしてそれが途中で終わっているだろう。それは「面白いと思うのだから、面白い」という目的に摩り替わっているからである。
面白いと発言するときの人間は気づいているし、覚悟があるはずである。これは周りに伝えるタメの言葉であるし、周りと比較して結論づいたゆえの発言として周り受け止められることを。しかし人は自分の決定権をほしいがために「面白いというのはすでに伝わった、確定したもの」という定義に変える行為をする。なら最初からそう言うべきだし、伝わって当然という発言で、周りからそれは人間性がおかしいと問い詰められても、それだったら怒ることはないだろう。
人間性への議論が怖いから「面白い」ということを伝える・共有する行為だということを忘れてはならない。そして同時に定義を決定しないことは、人間性への議論の継続の決定権を保有するための行為であって、議論を決定するための行為ではないのである。
結局のところ、その人にとっての人間性の議論の逃げか、挑戦か、それが「面白さ」という事を伝えるべきか、伝わって当然とする考えかの、揺れ動きに表れてくるのである。

面白いという単純な気持ちでの評が割れるとき、また割らなくてはならないとき、お互いの人間性の問い詰めの議論を最終的には本筋としなくてはならないことは非常に辛いというか、体力を削るものである。そして評が割られるときは、人間性の問い詰めから始まるものである。
しかし人間性・社会哲学の理解の議論をゆるさない・人間性の議論が全く偏った中での面白いという評の中での空間は、もっとつらいものである。
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世の中が混乱してる時の、社会警鐘の強迫概念をまとめとした訴えは、個人的損失への強迫概念のまとめの訴えに勝てない


「世の中がこんなにも悪くなりますよ!」とか、
「こういう未来が待っている、だからみんなで避けよう」と社会問題を警鐘するうえで、世の中の問題を共感させる手法・手段がありますが、世の中が混乱しているときは、「社会の見えない未来の被害」よりも、相手自身にとっての「未来の世界」を壊すおそれのある危険な問題が
その人への脅迫概念として、転がっています。

「想定する世界」では、もし「壊す要素・暴動する要素が入ってきたら、その世界は破綻してしまう可能性が少しでもあることは否定できないのではないか」、という主張ですから、今ある世の中の秩序が壊れているのならば、強迫概念として理論を比較するなら、身近な人間におこる未来の破壊想定の方が、社会全体の未来想定の危機より優位に立つでしょう。

これは手法の優位性においての比較であり、強迫概念ではなく、人々がどうやって安定をもたらし、自分の心がどうやって安定をもたらすか、その問題が社会の共有性の重要性から生まれることを、理論として競い合えば、社会問題の避けるべき未来の警鐘が勝つでしょう。しかしただ単純に問題提示した話の帯として社会破壊を提示するなら「どうしてそんなことが言えるんだ」と否定されるのであり、、個人生活の「危険な未来」も危険な要素があればいくらでも言えることであり、それらの「こうなった未来になっても知らない」という競合する問題提起が、社会が混乱しているのであれば、個人にに数多くあるということである。「世の中はこんなに明るいんだ」「世の中愉しめばいい」、これもその個人の世界においての「保証の見せ方」としてあるでしょう。ようはどれだけその話に具体性があるのかということですが、話の結びに「脅迫的な未来」をつけるのであれば、それらの問題は横並びになり、人々は社会問題ではなく、個人的な共有と娯楽を優先するのは当然だと言うことです。

でも社会問題を提起できる人間や組織・情報伝達機関の提起する社会問題は、個人問題より優先的に、同等に受け入れられているのではないかと考えるかもしれません。それはそれらの機関が、思想や哲学のもっとも根底にある「優遇されるべき考え」を抑えているからであり、個人としてこれを守らなければ、あなたの人生は「ろくでもないものになる」という伝達を可能にするための保証を、権謀術数を張り巡らせた上で、個人の営みの競合において優位性を抜きん出させてからの、社会問題の提起をしているからです。

そんな個人思想の優位性から物事の認識の伝達を張り巡らせているかどうかは、実際にはわからないのではないかという考えもあるでしょうが、人は物事を伝える上で、人の問題認識の数を減らし、優先してもらうために、自分の「問題提起」を相手につけるわけであり、そもそも他人に話しかけるのは、他人の持っている認識量の選択を減らして、認識情報を新たに入れるためのものではないのでしょうか。話しかける必要がある、伝える必要がある、それは相手を個人としてみる必要があるからではないのでしょうか。全体情報は、その個人に話しかける段階を踏んだ上のものだということです。全体情報として伝えようとしている事実と、実際をそれを個人に対して伝えようとしている事実がそこにあるわけです。


全体の世論などを操る社会全体問題は、個人の強迫概念があり、それから「社会問題の提起」をしているわけであり、実は用意万端と問題を問題として争っているのではなく、裏にある個人的存在優越意識を争っているわけす。一個人が社会問題を提起すること、更にその問題を単発で「強迫概念」として提起する方法は、やはりどんなに正しい理想的な社会に向けての「必要な正しさ」であっても、競合する1要素となるのであったら、埋もれていくのは、人の知覚認識の原理から言って当然だと言えるのです。
正しいから、必ず伝わる。これはだれから教わった手法なのかということです。その教わった手法も、脅迫概念からきてるのではないのかと。

最初に人に物を伝えたいという衝動は「危険があるから」ではないのです。人が観ている世界に、自分が提示する世界の量が少ないという「問題発生」から伝えているのであり、人の認識量の競合を抜きん出たいという提示がある、そのための物事を提示するという衝動なのです。もし人が認識量が競合していないのであれば、相手に物事が伝わらないことがおこっても、そんなに焦る必要はないはずです。人は伝えるという目的を忘れ、いかに社会問題がその後の世界に損失を招くかの強迫概念の1つを相手に与えるのは、他人が「強迫概念」に興味があり、その社会問題の根本にある問題は、他人の見えてる世界にはなんの興味のない「そっけない根本問題」と諦めているからでしょう。

人に物事を伝える必要性があると分かっているのなら、物事を認識している、そもそものその人の認識の必要性はなんなのかといことを伝えなければ、他の問題提示とどうやって差がつくのでしょうか。社会や世界がぶっこわれる規模が違う、だから優先問題だと言うのは、そもそもその話はなんなのかという話になるのです。

他の強迫概念は伝わるのだから、自分の強迫概念も伝わって当然である。そうやって伝えるということ自体に、自己自身が問題規模を着目していません。他の人間が伝わるなら、自分も伝わるという考えから始まっているのであり、人に物事を伝えれるという衝動は「他人と同じ事をやって伝えよう」という横並びの考えから始まるのであり、規模云々の話はそれなら必要ないということになります。被害規模を提示することが伝えることの目的とは、本人自身は最初は考えてなく、伝えることの最も確信を得たものから外れており、それは自分自身の「勘」「手応え」を全く無視した無計画な物事の伝達ということとなります。

本人自身は、被害規模で物事を伝えれると思ったのでしょうか。
被害規模で判断したのは、「物事が伝わるべき」という他人の知性・人間性の自負と営みに対しての大義においての確信ではないでしょうか。
それは自分が悪いことをしていない、間違ったことをしていないという、繰り返し自問自答するための判断基準であり、被害規模とは「伝えるべき意志」を表しているものです。

もし物事を人に伝えるならば、自分が人に物を伝えれるという強い「確信」を持ったときのことに、
答えはあるのではないのでしょうか。

3段論法の矛盾というのは、非常に相対認識の哲学を必要とする文学の文明の学問力が試される、認識のすり替えが起きてしまう「正しさ」を成立させてしまうものです。
自分自身が、こういう規模で起きるから正しいと思うことが、実は伝えるということにおいて
伝わらなかったときの「言い訳」に使っているのではないのでしょうか。
世の中がこういう悲惨なことがあると言っていることが伝わるのであれば、自分の言葉を聞かないことは、人としておかしいと、伝わらないことの「保証」として使うことを、
そしてその「保証量」だけで、伝えるということの質を決めているのではないのでしょうか

伝えるという質の1つが「伝わるべき事柄という保証」であって、
人に物を伝えるという「意義」であって、
人に物を伝える「脅迫」であって、
その社会の問題提起はなんなのか、これを考えることは非常に難しいことですが、難しいことに答えを出すということは、他の競合する認識問題よりも答えということで抜きん出るということになります。
どんな社会問題であっても、相手が物事を認識し比較する頭の中の手順は同じです。
その比較する優先順位を考えなおしてほしい、それが物事を伝えるための、更にその物事が伝達されるための、最善なのではということです。

もちろん物事を伝えるための舞台と組織と手順による競争がその前にあるのは、物事を広めるという目的がまた別にあるからなのでしょうが。
物事を広めるという考えになると、それは被害規模ではなくそれこそ権謀術数の手腕でしょう。被害規模という話題は、伝えるときのための一要素に過ぎないのでしょう。
しかしその物事を伝えるという組織を作るにしても「我々は」という個人に立ち返る、自分たちの見えている世界はなんなのかということが根本にある上で、組織の基盤と規模が決まってきます。

もし自分の提示問題が本当に正しいと思うのあれば、その個人を「立ち返らせる」ことで、比較検証を見なおすことの大事さと利を提示することで、自分の伝えたい問題提示が選ばれるのではないかと思います。

世の中には偽善的なことがあります。自分の見える世界を成立させるために、他人を固定させる、これは自分の世界の正しさをけん粉物に確信するための方法ですが、もし本当に正しいということが言えるのであれば、他人が大事にするべきことを尊重させることが、もっとも伝えたいことに最善なやり方でしょう。
もし他人の問題提示より秀でる自信があるなら、他人の正しさを間違いとするのが目的ではなく、他人が営みとしての事実として嘘を付いていることが問題であり、正しい間違いで言い争うことが目的ではないのでしょう。しかし難しいのは、その営みあり方の説明がなんともめんどくさいのものあり、物事を正しいから伝えるという理由に、正しかったら営みの説明も関係なしに伝わるはずです。営みの説明など、物事の正しさの話題に全く関係ありません。自分が正しいと確信した理由においても、人の営みは何であるかの考えは、そこから全く外れたものでしょう。

しかし物事は正しいから伝わるべきという考えは、あなたが「意気込んだ」「気合を入れている」というこおであり、つまりこれから挑むべきものがある物に気合をいれているだけのものがあるということである。もし物事が正しいから伝わると本当に考えているなら、気合を入れる必要もないのであるし、確信を確認する必要もないのです。「確信を確認するという行為」は「正しさが確立してない事」に対してだからです。本当に確信を理由にするのであれば、他人にとってどんないろんな問題提示をされているかわからない「競合する見えない敵」に対しての恐ろしさに、少しでも優位に正当性にあるんだという理由の確認でしょう。

物事を伝える上で、「正しいから伝わるべき」という、確認しなくていい理由を確認することは、自分自身の確信を裏切っている行為の2度手間であり、それを含めていろんな考えをすることは何かの成長を得れるかもしれませんが、物事を伝えるという事を必要に迫られているなら、不確定的である不確定要素を確認することが、考える事の発展といい結果になるのではないのでしょうか。常に考えの安定を得られないのは、不確定な敵がいるからなのだから。
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なぜ大人はテレビというヴァーチャルな世界にはまるのか


寂しいのである。

何に対して寂しいのか。
自分も議論に手軽に参加できるという場所が
ほしいことである。
「手軽」にその場所を手に入れれる相応の価値は、
自分の発想価値にあり、大人は我々が思う以上に、我々と同じくらいに、日々社会に対しての解決方法と、発想、世に出て注目されるような人間に匹敵するような見識眼をためこんでいて、それをいつでも発表出来る場所に参加したいという自分を売り込む向上心と、社会問題の解決に役だったかもしれないのにという未来の社会問題の修繕に対しての焦燥感と、他の人間が才能だけで手っ取り早く議論の場を手に入れているのではないかと、繰り返し想定することでの寂しさからくる、
発想・言論の証明の渇望が、仮想空間への参加をやめれなくさせるのだろう。

まあ確かに色々な自分の考えがあっても、それを発表する周りの環境や、組織・共同体運営・立場がない。
自分だったら、こう解決に対して発想できるのにという、社会への回答を常に考えているからこそ、
テレビにハマるのだろう。
だから自分が一生参加することのない、出会うことのない人間たちの空間に、
参加できるヴァーチャルな空間体験であっても、興奮してのめり込んでいしまうのだろう。
100メートル走の競技を魅せられて、その100メートル間のことを話し合いとして提供されても。
その100メートル走のグランド、運営、競技の概念の話は問題とされないヴァーチャルな世界であっても。
考えて見れば、テレビ以外の言論と評論の参加する場所など、
普通に働いて忙しい人間にとってみれば他にないわけで、
世の中にはこんな発想する人間がいると、発送だけでチヤホヤされる人間見れば、
常に自分もそこに参加するだけの能力はあったと、発揮できる場所には憧れるのは
当然に位置付けするのだろう。
会社の組合、そういう周りの討論の組織に時間を割いて作って入らなくても、
毎日発想していることがここまで整えられて発表できる場所、参加できる場所、評価される場所はテレビという空間しないわけであり、
しかも現実に身の回りで討論の場所を作ったとしても、周りに言論を広めるための運営才能を持った人間がその討論形成の場にいるとは限らないわけであり、
唯一毎日参加できて、自分の社会問題への発想と解決方法、見解とその能力を対面してくれる場所は、
やはりメディアしかないというのは、頷けるものである。
人はしゃべるために、言論を持つために、そこに生きがいをかけるのは、証明の欲するはじまりの感情として優先上位として、比類がないのであり、
手にした解決方法を発揮する場所がなければ寂しい思いをするのは当然であり、
メディアを見ているというより、自分たちが参加できる場所を知った今、それをやめることはできないだろう。

これは今の時代の我々がネットに情報を求めるのと同じ感情倫理である。
今の大人がテレビのメディアにはまるのは愚かしいと思えるだろう。
しかし今の大人がテレビメディアにはまらなかった、上の世代の酷い有様を観てきたのだ。
いずれ将来はネット中毒になっている我々を蔑んだ次の世代が、解決しない情報取得にしがみつく我々を横目に訳の分からない情報の取得を始めるだろう。
そして我々の世代はネットで情報を取るほうが慣れているし、お手軽ということでやめないだろう。

我々は、言論発想を証明できるヴァーチャルな場所であろうと求めているのである。
そして解決しない場でありながら、情報というわけの分からない言い分をもとにして、その世界にいる価値をとりあえずは保有しているだけでも損はしないということで、時間を投資するのである。
もちろん時間を投資することと、社会の改善は同一ではない。とりあえずという時間の投資に、解決に向かうという、影響的連鎖はないのであり、利の流れをどうするか確信めいた決定がなければ、
影響力連鎖という考えがあるのならば、それは享受できない。
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その事をいってもしょうがないとは

精神体力を削ってもしょうがないということ

精神体力を与えてから、削ることを説教として言うならまだわかるが、
もともと精神体力が削られているのに、どうこうしろと言っても、それ以上は動きようがない。
体力のあるところから削り取らなければ、分割する説教として成立することはない。
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