成果を出さないおしゃべり好きなやっかいな人間

「成果を出さないおしゃべり人間とは、
こちらが押せば守りに入り、黙れば説明できないでしょ、と挑発的になる、
どこにも目標に向いていない会話をしてくる人間であり、
目的を出すための組み立ての能力がない人間が行う会話行為であり、
成果を追求しない会話に対しては、なんでそんなことを言えるのか投げかけ、
成果を追求すると、守りに入る。
「実はそう考えていた、わかっていた」と、結果だけの意志を提示する、
途中の組み立てる能力の証明は全くやらない人間は、
やっかいである。
勝手に今まで経過に時間と労力を費やしてきたかのように、疲れ、
共に歩んできたかのように、悦に入る。
これは頭の中で能力を費やしてきたことが、自分がポーズを決めれる格好の良さが、
成立している証明となるという

これは物事の積立を理解しているというより、
人の思いやりや頑張りなどの共感を得る部分を理解することで、
そのものの成果を、自分の思いやりと共に、
否定すべきではないものとして発表することで、
自分の発言も潰されるべきではないとして、どうなんでしょうか?という考えと知性を含めた意味で発言をする。
しかし成果として能力と具体性を求められれば、
思いやりの無さを主張する、と同時に思いやりだけが世の中の全てではないと主張することでの
「自分は弱い人間だから」という事を主張する。

そのどちらも、思いやりの有無の理解ができることと、
思いやりの知覚ができることがいい悪いなぜ言えるのかを問われることはないという、
計算に基づいた会話である。

厄介なのは、答えを出したい側の人間からすれば、その思いやりの理解などはどうでもいいことであり、
しかしなおそれを踏まえ「それでも否定出来ないんでしょ」と思いやりの有無のあり方だけに
固執をして、その問題に取り組めば、悦に入り、その問題を横にやれば「逃げた」として、
あきらめと、許しを見せるポーズをとる。
答えに全く進まないのが厄介なのである。


「説明できないでしょう?」
「でも私が許してあげる」
「私って弱い人間なのよね」

この3つの立場の切り替えを利用して、しゃべり続ける人間を
成果を出さないおしゃべり好きな人間の例であり、
全ては思いやりの悦と、諦めと許しの結果に固執した会話をしてくる人間である。

突破口は、相手を無視して、現実的な理論をぶつけ、それに対して冷酷すぎると言われれば、
世の中の利益とその恩恵とそれを偏らせるものと、それを偏らせる人間がどうであるのか説明をすればいい。
相手は思いやりだけの悦と許しを求めているのであり、あくまで自分は思いやりを理解している知性側にいる人間ということを軸としているので、
そういう偏らせる人間と同類になりたくないと、自分を弁解するだろう。

やっかいなのは超現実論を理論として成立させなくてはならないことである。
それができなければ、相手は自分に挑発に似たよな許しを与えてきて、そして同意に対しては悦と一緒に立ち向かおうという許可と、それに油断してはいけないという厳しい態度を与えてくるだろう。

答えを出さなければ、下に見られ許しを与えられ、答えを出せば一緒に頑張ろうという、余裕があって、でも自分はそういう事は考えていたという更に上にいる態度を取り、対等という態度をとろうとしない。そもそも対等とかそんなことどうでもいいから、物事の話をしたい時に、思いやりを否定する感情を引き出すような、その判決を出来る自分を能力としてみせる、そのやりとりは本当にその場で求めているものではなく、厄介であると言えるだろう。
こういう時のために、「物事」と「善悪」の理解というのは非常に大切になるだろう。相手の矛盾した主張願望を指摘するために。自己の悦と許ししか与えてこない相手に、それを疑問に思う自分の思いやりのやり取りをこなせない理解の無さが自分の方にあるのではないのかという考えになってしまうことになるからである。
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