平等という概念は存在しない

あるのは「偏りを崩すことによる、利の配布による平等の先導」である。

平等とは「ある特定の人間にしか付与されない」ものである。
厳密には、今から何かを始めようとする人間、事業を始めようとする人間にとって、既得利権に利益や権利を大幅にとられないこと、邪魔されないこと、既得権に太刀打ち出来ない様な状況において、もっと平等な競争をしようという提言であり、そういう「中間的な生産事業者」にとって、平等という権利はあり、
全体に対して真の平等という概念はない。

結局、物事を始めるとき、自分が何か創造を始めようとするとき、自分の計画においての、生産に従事する人間の多くを必要とするのであり、また生産に従事する人達が産み出した、社会の利益の流れを拝借させて、物事とは生み出し、売り込むことができ、その流れから利益を得ることができる。「何かを当て」にして、自分の新しい考えとは、おおきな成果を含むのである。

従事する人間がいることを前提にするということは、すでにそこは平等ではない。誰かを「働かせて、自分だけがそのアイデアを実施する」ということは、平等と不平等を兼ね添えた上での、平等の切望である。

万人が平等ということは「事業が始められない」ということを意味し、生産原理を否定することである。それでも「事業が始まる世の中」というのは、いきなり「平等」と叫びながら、平等を無視する世の中という事となる。

しかし「世の中は不平等」である。平等は主張しなくてはならない。だからこそ「中間権利者」が組織をまとめ、そこにいる全員で被害を装うことで、平等は主張することができる。

しかしその組織において、上下が成立しているのであり、そこで平等を否定しているのである。
平等を真にうけた先にあるものは「内部崩壊」である。





もし全体の平等がないとして、「中間権利者」に平等を与えたとするならば、
それによって世の中は「力の流れにおいて平等」を意味することとなる。
万人が平等という考えは「物の流れが、距離、時間、によって売買の価値が生まれる個人差」を否定するものである。中間の「納得の平等」を通すことで、全ての平等は平等として捉えることができるのである。


「物質、心、距離」
心が豊かであれば、貧しくてもいいというが、心とは正確に言えば「意識に使った時間」である。貧しさとは「生産従事の自負」である。田舎と都会の暮らしとった、生活距離による平等もあるだろう。この3つにおいても、それぞれが全て平等という主張をしあったら、喧嘩が起きるだろう。それらは平等を譲る権利でもないからである。そして自分だけが平等でいいという考えと、全体が平等ないといけないという考えも、ぶつかるだろう。そしてこれらの平等の提言を発する人間が「既得権にいる人間」によるものなら、言葉の平等という考えが必要だろう。つまり偏りを生み出している人間の利を減らすことが平等であり、「利を減らす」という考えを持たなければ、平等を成立させることはできないのであり、「利を減らす」という提言をする人間は、何かにぶつかるということである。


真の平等とは「事業を始める中間権利者」に与えられる事を指し、
全体被害者による「片一方の全体理想論」を相手にぶつけることを平等という。
単純にお互いに平等をぶつけ合うことは「偏り」を認めさせる行為に過ぎない。
国という平等を期待するなら「国という権利事業者」に従うしかないのであり、
国を否定するなら「人権指導者」に従うしかないのである。


もし全体主義者が、単純な平等を強く主張する「倫理観」が世の中にあり、それを否定出来ない世の中なら、そこには「矛盾と欺瞞に満ちた平等と自分の機会の平等を望む」といった、足を引っ張り合う世界があるだろう。


世の中とは、利を偏らせるものを攻撃することでしか、物事の正当性ははじまらないのである。
「知的な組織」とは、平等を口にしながら、自分たちの利を得る上下関係を認めている組織である。
そして純粋な平等主義者は、「仲間割れ」の世界に実を投じることになるだろう。
だれかが平等の成り立ちの原理を教えない限り。

更に物事の原理とは「通すこと」であり、「攻撃すること」から始まるのである。
なぜわざわざ原理を提言するのか。それは誰かが原理を曲げている、理解させないようにしているからであり、成立してないからである。
平等とは誰かを攻撃してこそ、平等である。
平和とは誰かを攻撃してこそ、平和である。
嫌な物事を通さない人間がいたら、攻撃することである。
それをしないということは、ごまかす、だます、という現象が起き、
何が正しいのかわからなくなるのは当然である。
平等とは「平等を偏らせるもの」がいるから、主張するものである。
平和とは「平和を乱す物」がいるから、主張するものである。
攻撃を否定することは簡単である。平等と平和をぶつければいい。
しかし攻撃という物事の始まりを否定して、どうして偏らせるものを攻撃できるのか。

大事なのは「攻撃をする」という行為が、「何に対して平等か」という慈悲の防衛線を引くことにある。
絶対攻撃することは曲げてはならないし、「物事を偏らせる攻撃」と一緒くたにされてはいけない。
もし何に対して平等かとするならば「物事の力の流れ」を平等にすることである。

そして「物事のはじまり」とは、「言葉の配布量」である。
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