世の中が混乱してる時の、社会警鐘の強迫概念をまとめとした訴えは、個人的損失への強迫概念のまとめの訴えに勝てない


「世の中がこんなにも悪くなりますよ!」とか、
「こういう未来が待っている、だからみんなで避けよう」と社会問題を警鐘するうえで、世の中の問題を共感させる手法・手段がありますが、世の中が混乱しているときは、「社会の見えない未来の被害」よりも、相手自身にとっての「未来の世界」を壊すおそれのある危険な問題が
その人への脅迫概念として、転がっています。

「想定する世界」では、もし「壊す要素・暴動する要素が入ってきたら、その世界は破綻してしまう可能性が少しでもあることは否定できないのではないか」、という主張ですから、今ある世の中の秩序が壊れているのならば、強迫概念として理論を比較するなら、身近な人間におこる未来の破壊想定の方が、社会全体の未来想定の危機より優位に立つでしょう。

これは手法の優位性においての比較であり、強迫概念ではなく、人々がどうやって安定をもたらし、自分の心がどうやって安定をもたらすか、その問題が社会の共有性の重要性から生まれることを、理論として競い合えば、社会問題の避けるべき未来の警鐘が勝つでしょう。しかしただ単純に問題提示した話の帯として社会破壊を提示するなら「どうしてそんなことが言えるんだ」と否定されるのであり、、個人生活の「危険な未来」も危険な要素があればいくらでも言えることであり、それらの「こうなった未来になっても知らない」という競合する問題提起が、社会が混乱しているのであれば、個人にに数多くあるということである。「世の中はこんなに明るいんだ」「世の中愉しめばいい」、これもその個人の世界においての「保証の見せ方」としてあるでしょう。ようはどれだけその話に具体性があるのかということですが、話の結びに「脅迫的な未来」をつけるのであれば、それらの問題は横並びになり、人々は社会問題ではなく、個人的な共有と娯楽を優先するのは当然だと言うことです。

でも社会問題を提起できる人間や組織・情報伝達機関の提起する社会問題は、個人問題より優先的に、同等に受け入れられているのではないかと考えるかもしれません。それはそれらの機関が、思想や哲学のもっとも根底にある「優遇されるべき考え」を抑えているからであり、個人としてこれを守らなければ、あなたの人生は「ろくでもないものになる」という伝達を可能にするための保証を、権謀術数を張り巡らせた上で、個人の営みの競合において優位性を抜きん出させてからの、社会問題の提起をしているからです。

そんな個人思想の優位性から物事の認識の伝達を張り巡らせているかどうかは、実際にはわからないのではないかという考えもあるでしょうが、人は物事を伝える上で、人の問題認識の数を減らし、優先してもらうために、自分の「問題提起」を相手につけるわけであり、そもそも他人に話しかけるのは、他人の持っている認識量の選択を減らして、認識情報を新たに入れるためのものではないのでしょうか。話しかける必要がある、伝える必要がある、それは相手を個人としてみる必要があるからではないのでしょうか。全体情報は、その個人に話しかける段階を踏んだ上のものだということです。全体情報として伝えようとしている事実と、実際をそれを個人に対して伝えようとしている事実がそこにあるわけです。


全体の世論などを操る社会全体問題は、個人の強迫概念があり、それから「社会問題の提起」をしているわけであり、実は用意万端と問題を問題として争っているのではなく、裏にある個人的存在優越意識を争っているわけす。一個人が社会問題を提起すること、更にその問題を単発で「強迫概念」として提起する方法は、やはりどんなに正しい理想的な社会に向けての「必要な正しさ」であっても、競合する1要素となるのであったら、埋もれていくのは、人の知覚認識の原理から言って当然だと言えるのです。
正しいから、必ず伝わる。これはだれから教わった手法なのかということです。その教わった手法も、脅迫概念からきてるのではないのかと。

最初に人に物を伝えたいという衝動は「危険があるから」ではないのです。人が観ている世界に、自分が提示する世界の量が少ないという「問題発生」から伝えているのであり、人の認識量の競合を抜きん出たいという提示がある、そのための物事を提示するという衝動なのです。もし人が認識量が競合していないのであれば、相手に物事が伝わらないことがおこっても、そんなに焦る必要はないはずです。人は伝えるという目的を忘れ、いかに社会問題がその後の世界に損失を招くかの強迫概念の1つを相手に与えるのは、他人が「強迫概念」に興味があり、その社会問題の根本にある問題は、他人の見えてる世界にはなんの興味のない「そっけない根本問題」と諦めているからでしょう。

人に物事を伝える必要性があると分かっているのなら、物事を認識している、そもそものその人の認識の必要性はなんなのかといことを伝えなければ、他の問題提示とどうやって差がつくのでしょうか。社会や世界がぶっこわれる規模が違う、だから優先問題だと言うのは、そもそもその話はなんなのかという話になるのです。

他の強迫概念は伝わるのだから、自分の強迫概念も伝わって当然である。そうやって伝えるということ自体に、自己自身が問題規模を着目していません。他の人間が伝わるなら、自分も伝わるという考えから始まっているのであり、人に物事を伝えれるという衝動は「他人と同じ事をやって伝えよう」という横並びの考えから始まるのであり、規模云々の話はそれなら必要ないということになります。被害規模を提示することが伝えることの目的とは、本人自身は最初は考えてなく、伝えることの最も確信を得たものから外れており、それは自分自身の「勘」「手応え」を全く無視した無計画な物事の伝達ということとなります。

本人自身は、被害規模で物事を伝えれると思ったのでしょうか。
被害規模で判断したのは、「物事が伝わるべき」という他人の知性・人間性の自負と営みに対しての大義においての確信ではないでしょうか。
それは自分が悪いことをしていない、間違ったことをしていないという、繰り返し自問自答するための判断基準であり、被害規模とは「伝えるべき意志」を表しているものです。

もし物事を人に伝えるならば、自分が人に物を伝えれるという強い「確信」を持ったときのことに、
答えはあるのではないのでしょうか。

3段論法の矛盾というのは、非常に相対認識の哲学を必要とする文学の文明の学問力が試される、認識のすり替えが起きてしまう「正しさ」を成立させてしまうものです。
自分自身が、こういう規模で起きるから正しいと思うことが、実は伝えるということにおいて
伝わらなかったときの「言い訳」に使っているのではないのでしょうか。
世の中がこういう悲惨なことがあると言っていることが伝わるのであれば、自分の言葉を聞かないことは、人としておかしいと、伝わらないことの「保証」として使うことを、
そしてその「保証量」だけで、伝えるということの質を決めているのではないのでしょうか

伝えるという質の1つが「伝わるべき事柄という保証」であって、
人に物を伝えるという「意義」であって、
人に物を伝える「脅迫」であって、
その社会の問題提起はなんなのか、これを考えることは非常に難しいことですが、難しいことに答えを出すということは、他の競合する認識問題よりも答えということで抜きん出るということになります。
どんな社会問題であっても、相手が物事を認識し比較する頭の中の手順は同じです。
その比較する優先順位を考えなおしてほしい、それが物事を伝えるための、更にその物事が伝達されるための、最善なのではということです。

もちろん物事を伝えるための舞台と組織と手順による競争がその前にあるのは、物事を広めるという目的がまた別にあるからなのでしょうが。
物事を広めるという考えになると、それは被害規模ではなくそれこそ権謀術数の手腕でしょう。被害規模という話題は、伝えるときのための一要素に過ぎないのでしょう。
しかしその物事を伝えるという組織を作るにしても「我々は」という個人に立ち返る、自分たちの見えている世界はなんなのかということが根本にある上で、組織の基盤と規模が決まってきます。

もし自分の提示問題が本当に正しいと思うのあれば、その個人を「立ち返らせる」ことで、比較検証を見なおすことの大事さと利を提示することで、自分の伝えたい問題提示が選ばれるのではないかと思います。

世の中には偽善的なことがあります。自分の見える世界を成立させるために、他人を固定させる、これは自分の世界の正しさをけん粉物に確信するための方法ですが、もし本当に正しいということが言えるのであれば、他人が大事にするべきことを尊重させることが、もっとも伝えたいことに最善なやり方でしょう。
もし他人の問題提示より秀でる自信があるなら、他人の正しさを間違いとするのが目的ではなく、他人が営みとしての事実として嘘を付いていることが問題であり、正しい間違いで言い争うことが目的ではないのでしょう。しかし難しいのは、その営みあり方の説明がなんともめんどくさいのものあり、物事を正しいから伝えるという理由に、正しかったら営みの説明も関係なしに伝わるはずです。営みの説明など、物事の正しさの話題に全く関係ありません。自分が正しいと確信した理由においても、人の営みは何であるかの考えは、そこから全く外れたものでしょう。

しかし物事は正しいから伝わるべきという考えは、あなたが「意気込んだ」「気合を入れている」というこおであり、つまりこれから挑むべきものがある物に気合をいれているだけのものがあるということである。もし物事が正しいから伝わると本当に考えているなら、気合を入れる必要もないのであるし、確信を確認する必要もないのです。「確信を確認するという行為」は「正しさが確立してない事」に対してだからです。本当に確信を理由にするのであれば、他人にとってどんないろんな問題提示をされているかわからない「競合する見えない敵」に対しての恐ろしさに、少しでも優位に正当性にあるんだという理由の確認でしょう。

物事を伝える上で、「正しいから伝わるべき」という、確認しなくていい理由を確認することは、自分自身の確信を裏切っている行為の2度手間であり、それを含めていろんな考えをすることは何かの成長を得れるかもしれませんが、物事を伝えるという事を必要に迫られているなら、不確定的である不確定要素を確認することが、考える事の発展といい結果になるのではないのでしょうか。常に考えの安定を得られないのは、不確定な敵がいるからなのだから。
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