
寂しいのである。
何に対して寂しいのか。
自分も議論に手軽に参加できるという場所が
ほしいことである。
「手軽」にその場所を手に入れれる相応の価値は、
自分の発想価値にあり、大人は我々が思う以上に、我々と同じくらいに、日々社会に対しての解決方法と、発想、世に出て注目されるような人間に匹敵するような見識眼をためこんでいて、それをいつでも発表出来る場所に参加したいという自分を売り込む向上心と、社会問題の解決に役だったかもしれないのにという未来の社会問題の修繕に対しての焦燥感と、他の人間が才能だけで手っ取り早く議論の場を手に入れているのではないかと、繰り返し想定することでの寂しさからくる、
発想・言論の証明の渇望が、仮想空間への参加をやめれなくさせるのだろう。
まあ確かに色々な自分の考えがあっても、それを発表する周りの環境や、組織・共同体運営・立場がない。
自分だったら、こう解決に対して発想できるのにという、社会への回答を常に考えているからこそ、
テレビにハマるのだろう。
だから自分が一生参加することのない、出会うことのない人間たちの空間に、
参加できるヴァーチャルな空間体験であっても、興奮してのめり込んでいしまうのだろう。
100メートル走の競技を魅せられて、その100メートル間のことを話し合いとして提供されても。
その100メートル走のグランド、運営、競技の概念の話は問題とされないヴァーチャルな世界であっても。
考えて見れば、テレビ以外の言論と評論の参加する場所など、
普通に働いて忙しい人間にとってみれば他にないわけで、
世の中にはこんな発想する人間がいると、発送だけでチヤホヤされる人間見れば、
常に自分もそこに参加するだけの能力はあったと、発揮できる場所には憧れるのは
当然に位置付けするのだろう。
会社の組合、そういう周りの討論の組織に時間を割いて作って入らなくても、
毎日発想していることがここまで整えられて発表できる場所、参加できる場所、評価される場所はテレビという空間しないわけであり、
しかも現実に身の回りで討論の場所を作ったとしても、周りに言論を広めるための運営才能を持った人間がその討論形成の場にいるとは限らないわけであり、
唯一毎日参加できて、自分の社会問題への発想と解決方法、見解とその能力を対面してくれる場所は、
やはりメディアしかないというのは、頷けるものである。
人はしゃべるために、言論を持つために、そこに生きがいをかけるのは、証明の欲するはじまりの感情として優先上位として、比類がないのであり、
手にした解決方法を発揮する場所がなければ寂しい思いをするのは当然であり、
メディアを見ているというより、自分たちが参加できる場所を知った今、それをやめることはできないだろう。
これは今の時代の我々がネットに情報を求めるのと同じ感情倫理である。
今の大人がテレビのメディアにはまるのは愚かしいと思えるだろう。
しかし今の大人がテレビメディアにはまらなかった、上の世代の酷い有様を観てきたのだ。
いずれ将来はネット中毒になっている我々を蔑んだ次の世代が、解決しない情報取得にしがみつく我々を横目に訳の分からない情報の取得を始めるだろう。
そして我々の世代はネットで情報を取るほうが慣れているし、お手軽ということでやめないだろう。
我々は、言論発想を証明できるヴァーチャルな場所であろうと求めているのである。
そして解決しない場でありながら、情報というわけの分からない言い分をもとにして、その世界にいる価値をとりあえずは保有しているだけでも損はしないということで、時間を投資するのである。
もちろん時間を投資することと、社会の改善は同一ではない。とりあえずという時間の投資に、解決に向かうという、影響的連鎖はないのであり、利の流れをどうするか確信めいた決定がなければ、
影響力連鎖という考えがあるのならば、それは享受できない。
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