正しい・間違いに摩り替わった場合、ずるがしこく生き残れる正しさか、社会的に正しいのか、どっちの意味なのか言及しなくてはいけなくなる。
さらに正しいと言えること自体強いということ、つまりそれは人生、真理を追求しているという証明であり、
正しいということが正しいと言える所以である。
しかし議論でその人の性根と才知と考えを見るのは、利の組み立て方と考え方と証明の仕方である。
正しいから、正しい、それは利の利益分率を通さないで、参加する意志の表れである。
どんな利を偏らせる悪人でも、一回は利の流れを見通しておかないと、
その悪人を目の前にしたとき文句を言えないのである。
正しいから、正しい、それは損をする流れに当てはめられないようにする自己防衛のすべに過ぎなく、自分が他人に損の役回りを与えるだけの大義名分に過ぎない。
もし説明したい利の流れがあれば、それは説明した時点で自分にとっての偏った利の流れの希望となる。
だからこそ他人と分配するための「動作同順」の要素を説明しなくてはならない。
その説明ができないために、自分の頭の世界の理想とする世界、助けるべき世界の「動作同順」を思い浮かべて、常に発言や行動としてその世界を気にするかの動きをして、正しいことは正しいという説明に至らせているのである。
しかしそれは、「自分が理想の社会を運営する利益の勝利を得ている自分」を正しいという、正しいの本来の意味に帰順することでもある。
3段論法の正しい・間違いによる「利の流れの見解においても正しい」という主張は、
単なる正しい・間違いの言い争いに勝たなくてはならなくなる、正しい・間違いをなにをもって正解とするかの「議論のすり替え」を引き込んでいる、挑発に乗る形にはまる考え方である。
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