メディアを第4の権力と言う言葉を
そういう捉え方をしているのだろう。
これほど勘違いの激しい物事の捉え方はない。
慎重となり、
ごまかしが、
我慢がはぐらかしであり、
決断が暴走であり、
妥協が癒着となる。
が馴れ合いとなり、
華やかさが勘違いとなり、
弁解が言い訳となり、
まるで伝わってないのです。
逆に
ごまかしが沈着となり、
馴れ合いが強調となり、
言えないことがあるでしょう。
一体何に対して言えないか。
自由とすることと強調することと規制することでしょう。
攻撃することの弁解と説明が許してもらえなくて、
一体何が伝わるのでしょうか。
そしてそのせいで、やることもやれずに、
一体何がやりたいのかということでしょう。
そして大義とは、共感せずに、人々にとってなんの意味があるのでしょうか。
今は正しいから正しい、それでしか進む方法はないのです。
それで一体「間に合う」のでしょうか。
伝達する人にまかせっきりなのか
その伝達する人が、なんで他人の「強制と認可」を責任をもって伝えなくてはならないのか
そんなモノは勝手に言っていると、他の人から言われたら、証明できないのである。
その信用は、物事を伝えるべき本人たちが、責任をもって説明しなくて、無理なのではないのか。
更に本人たちに聞いても、はっきりと回答をもらえなかったら、
その「伝達」にどれほど期待をもてるのか。
「伝達」とは物事を伝えることを期待するものではない。
自分たちの強制と許可の、意志と意味合いを伝えた上で、
その「伝わったかどうかの確認」程度として、伝達はあるのであり、
はじめから「どれくらい伝わるかの想定」は、計算できた上での「伝達」という確認である。
説明の機会を得られずに、伝達だけで「考え」を通せるとおもったら、
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